泣く練習

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「おっ! 来るぞ、来るぞ!」

にやにやしながら、父が私を見ている。
普段は大好きな父が、こんな時は本当に憎らしい。
泣き虫な私が、泣き出す瞬間。
口がへの字にひん曲がり、顔がみるみる赤くなり、目のふちに涙があふれてきて。
「わああああああーーーーーーーんっ!!!!!」
小さな私は泣き叫ぶ。

幼いころ、私は本当に泣き虫な子供だった。
泣き虫というと、弱い子、というイメージかもしれないが、私の場合は、大声で泣き叫び、全身で大暴れするような子だった。
何かの予防接種に行って、注射が本当にいやでいやで泣きわめき、暴れまくって、注射の針が曲がってしまったという逸話は、大きくなってから笑い話として何回も母から聞かされた。
針が刺さったまま暴れるとは、余計に痛いし、第一危ないじゃないかと、今なら冷静に思うけれど。

本当によく泣く子供だった。
両親はさぞかし大変だったことだろう。今思うと本当に申し訳ない。
だけど、幼い私は、泣いて暴れることによって感情を吐き出して、表現していたのだ。

おそらく幼稚園に行くようになった頃、私は泣き虫を返上しようと、幼いながらに努力をした。
にやにやと面白がってからかう父の顔も憎たらしくて、泣くことを我慢するようになった。
涙が出そうになると、一生懸命に呑み込んで。
そんなけなげな努力が実って、段々と泣くことも減り、大人になって、そんな過去はおくびにも出さない。
クールな大人になった。


そんなことも忘れかけていた最近、友人と話していた時のこと。
あごが開けづらくなる顎関節症(がくかんせつしょう)や、寝ている時に歯ぎしりをする人。そういう人の多くが、言いたいことを言わずに呑み込んでいるらしいよ、と友人が何気なく言った。
私はそれを聞いてどきっとした。
言いたいことを言わずに呑み込んでいる。
それは感情を押し殺す、と同じことではないだろうか。

私は特にあごの関節には問題はないと思っているが、舌が短い。
べー、と舌の長さを人と比べてみても、あきらかに短い。固くて下に伸びない。
舌はのどの奥から伸びているわけだから、多少はあごにも関係があるのかもしれない。
そして舌は筋肉だから、舌が固いというのは緊張しているということだろう。
言いたいことを呑み込んでいる、と同じことじゃないだろうか。

クールな大人になったからといって、本当は泣きたい時だってたまにはある。
人前で涙を流すというのはどうかという思いもあるから、そんな時はやっぱり涙をこらえることになる。
そういう、こみ上げてくる泣きたい思いを我慢するとき、ぐっとのどを強張らせて抑えているということに気が付いた。
言いたいこと、というより、泣きたい気持ちを呑み込んでいる。
泣いてはいけない。
泣いてはいけないのだ、大人の私は。
そういう思いで。

 


そして思い出したのが、小学生の低学年のころの出来事。
いとこの家で、テレビか何かでやっていたアニメを見ていた時のこと。
「ごんぎつね」という物語だった。

新見南吉という人の書いた児童文学で、子供むけにしてはすごく悲劇的な物語。
おそらくそれがアニメ化されたものだったのだと思う。

いたずらばかりしていた子ぎつねのごんが、それを悔いて、償いをしようと栗を集めて持っていったのだが、またいたずらに来たと誤解されて撃たれてしまう。

撃った後にその人間が、いつも栗をくれたのはおまえだったのか、と気付くところで、どうしようもない切なさとやるせなさに苦しくなってしまう、そういう物語。

とにかく、小学生の私はいとこと一緒にそのアニメを見ていて、最後のその場面で、もうどうしようもなく泣きたくなってしまったのだ。
もう、これは悲しすぎて涙をこらえることはできない。今は、泣いてしまおう。泣いてもいい。
そう自分で許可を出してから、私は号泣したのだ。
こんなに悲しい話なのだから、泣いたっておかしくないだろう、いとこだって私の泣き顔を笑ったりしないだろう。そんな風に言い訳をして、自分に「泣いても良い」と許可を出したのだ。

小学校低学年ですでに、そんなにも自分を厳しく規制していたことを思い出して、自分で驚いてしまった。
なんとまあ、けなげな子供だったのだろうか。
しかもそれは、今も自分で続けている規制だったのだ。

 

泣くことに限らず、感情や言いたいことを表現せずに呑み込むことが、なぜ良くないのか。そう思われるかもしれない。
感情的になったり、泣いたりするのはおとなげないでしょ、と思う方もいるかもしれない。以前の私と同じように。

でも、これは続けていると身体に良くないのだ。
感情を我慢して押さえつけ、感じきらないでいると、身体に影響を与える。
無意識に身体を緊張させて、自分でも気づけなくなっている。
肩こりがひどすぎて、自覚がなくなってしまった人のように。
私の舌のように。
身体の欲求をいつも無視していると、心の欲求にも気づけなくなるという。やりたいことが分からない、夢なんてない、というやつだ。

 


「ごんぎつね」のことを思い出してから、私は泣く練習をしている。
人前ではさすがに難しい。
でも、映画や本でも泣く練習は出来る。
実生活で泣きたい気持ちになった時は、どこか見えないところに行ってから泣く。
泣いていいよ、頑張れ、泣け、と自分を励ましている。

そして私の舌はすこしずつ緩んで長くなっている。
舌だけではない。身体は全部つながっている。そして心もつながっているのだ。

 

大人だって泣きたい時は泣いていい。いや、むしろちゃんと泣け。
男だって女だって、おんなじだから。