個性と共存

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私は、自分がすごく平凡な人間である、と感じているからか、
強い個性や信念を持って、それを堂々と表現している人に強烈に憧れている。

職人のように、ひとつのことを極めている人もそうだし、
伝統芸能を継承する人や芸術家、音楽家
それからセクシャルマイノリティの人もそうだし、
パラアスリートや、障害があるけれど何かしら独自の表現をしている人、などなど
自分とは違った個性を持っていて、更にそれを堂々と表現できる人に、とても憧れている。
外国の文化に触れたい、と思うのも、
本を読むのが好きなのも、同じ思いから来るのだと思う。

いろんな個性を持った人々がいて、社会が多様であることというのは、
私にとっては、とても豊かだと感じる。
「多様性」という言葉にとても惹かれる。

自分が興味のない分野であっても、
そういう人の話を聞いたり、表現に触れたりするのは、
新しい視点を垣間見せてくれる、ワクワクするような体験。

いろんな人がいて、いろんな考え方、いろんな文化があって、
それでも世界中の人とコミュニケーションが成り立っているということは、奇跡のようにすら感じる。

 

 

 

私には、この地球がひとつの生命体で、
人間や他の生物は、その生命体の細胞のひとつひとつである、というイメージがある。

この地球に一緒に暮らす、たくさんの生命体。
それが、ひとりの人間の身体を構成するたくさんの細胞たちのように、
つながって、協力しあいながら、影響をうけあい、与えあいながら、全体としてひとつの生き物として生きている。
そういうイメージが強くある。

人間の細胞は単体では生きられないだろうし、人も一人だけでは生きていけない。
どんなに嫌いな人でも、どんなに理解できない人でも、
この地球を構成する、仲間であるに違いない。
そういう人も含めてみんなで1個の生命体なんだと思う。
今のところ、みんな、地球以外では生きられないんだから。


そして、全ての細胞が同じ働きをするのでないように、
人もそれぞれの個性で、それぞれの役割があるのだと思う。

全員が戦士みたいな免疫細胞とか、頭脳明晰な脳細胞だったら、ひとりの人間にはなれない。
平凡そうな、皮膚や筋肉の細胞も、無いと困るのだ。
(だから私も本当は人に憧れるだけではなく、自分の「平凡」の役割をすればいい)

皮膚があって、骨や筋肉があって、
心臓や肺や肝臓などたくさんの個性的な働きをする臓器があって、
それらが連携してひとりの人間の身体を維持しているように。
この星、この社会も、違ったもの同志が連携しあい、協働しあって、成り立っている。
そうだよね?

 

 

 

 

 

自分と違う人のことを排除したり、
危なそうと思われる人を、監視したり警戒したり、というのは、とても残念な方向だと思う。
知らないことは怖いから、怖いと逆に攻撃してしまうのかもしれない。

排除しよう、といったって、見えないところに追いやるだけでしかない。
みんな同じ星に住んでいるんだから、どうしたってつながっている。

 

弱いとか、障害があるとか、病気だとかも
個性のひとつであって、
分かりやすく「役に立つ」ということが出来なかったとしても、その個性によって
人に気付きや影響を与えたり、
ケアをする周りの人達に役割を与える、という役割をしていたりする。

自分が理解できないからって、その人の個性が不要なものだなんていうことは絶対にできない。
ただ自分が、理解できないだけなんだから。

こういう奴は、この社会(この星)にはふさわしくない、生存する権利がないなんて、
誰が決めるんだろう。
どうしてそんなこと言えるんだろう。
誰にだって、どんな個性を持っていたって、生存する権利はある。

 


どうしても好きになれない人とか、どうしても理解できない人って、いる。
そういう人とは、無理につながる必要はない。
だけど、それは攻撃していいということにはならない。

そういう人のことは、ただ存在を認める。
それだけで良いのではないかな。


存在を否定されること以上に、つらいことってないと思う。
別に全人類に素敵だと思ってもらわなくたっていいけど、
存在そのものを否定されたり、排除されたりしたくない。誰だって。

 

 

「普通」というのには全く魅力は感じない。

でも、それでも私も「普通」にはよくとらわれてしまう。
普通はこうだよね、普通こうするよね。
自分の持っている「常識」や「当然」に縛られて、気が付くと、そういう判断をすることがある。

とはいえ、
その自分の常識の範疇から外れる人であっても、
好きになれないと思っても、
同じ地球に生きるという意味での仲間であり
共生していることだけは忘れないようにしたい。