「セミがついています」

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猛烈に暑い真夏の盛りに、出来れば外なんて歩きたくないと思う。
それはきっと誰しも同じだろう。
それでも歩かなきゃいけない時はあるから、37℃とかいう桁外れの猛暑でも、歩いている人は結構いる。
みんな汗をふきつつ、少々顔をゆがめつつ。

 

そんな日に、私は渋谷の宮益坂を下って、駅方面に歩いていた。
そんな時、若い女の子が遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの、すみません…」 
暑さに疲れ気味の私は、少しいぶかしげにその女の子の顔を見る。
なんだろう、キャッチかな、面倒だな…。
そんなことを思いつつ。
そうしたら、その女の子は言ったのだ。
「あの、セミがついてます」
「………。っええ??!!」
「パンツの内側のあたりにセミが…」
「えっえっどっどこどこ?」
動揺のあまり、どうしていいかわからない。
その女の子に、
「えっ、どうしたら……?」
などど聞く始末。

だって、考えてもみてください。
都会の真ん中ですよ。
そして、セミですよ。
セミって結構大きいですよ。
そして、飛ぶときバサバサしてますよね普通。

 

その時私は、少し明るい緑いろの、生地がたっぷりとしたフレアパンツをはいていた。もしや緑の少ない都会で、ひらひらと揺れる緑いろの生地が、葉っぱの緑と間違えられたのか?
生地がたっぷりしていたために、飛んできたのも、とまったのも、実感としては感じなかったみたいだ。
そんなことはどうでもいいのだが、このふくらはぎの内側あたりにとまっている、大きな茶色いセミをどうしたらよいのか。
下手に刺激して、バサバサっと顔の方に飛んで来たら怖い。
どうしよう。

 

そうしたら、その女の子は、持っていた家電か携帯かなんかのパンフレットを手渡してくれた。
「これ、もうあんまりいらないから、よかったら」
「あっありがとうありがとう」

でも、生地をバサバサとふっても、そのパンフレットでさっと払っても、なかなか動じない。
怖い私はへっぴり腰で、あああ、どうしようどうしよう、と動揺が激しくなるばかり。
何度目かの払いで、ようやくぱさっと音がして、少し離れたところにセミは落ちた。
そうとう弱っていたようで、道路の真ん中に、ひっくり返って動かなかった。

 

その女の子が「良かったですね」と声を掛けてくれるまでの一瞬、ほっとして放心状態だった。そして、その子は私からパンフレットを受け取って、去っていった。
後ろ姿に向かって、ありがとうを叫ぶ。

いや本当に教えてくれて本当に助かった。
だって、服にセミがついたまま、気がつかずに座って踏みつぶしたりしてたらどうなんですか。さらに言うなら家に帰るまで気がつかず、家の中でバサバサとセミが暴れたとしたらどうなんですか。
自慢じゃないけど、私は虫が苦手だ。共存することは大事だとは思うけれど、私の家の中には招きたくない。
あの女の子は教えてくれるだけじゃなく、道具まで貸し出してくれて、払い終わるまで見守ってくれたのだ。なんて優しいひとなんだ。
声掛けられたときに、キャッチか、面倒だななんて思ってごめん、本当にありがとう!!! 

そんなことを思いながら後ろ姿を見送っていて、道路に落ちたセミのことは、もう半ば忘れていた。道の真ん中にひっくり返っていたら、あっという間に踏みつぶされてしまう。と、そのときは気づきもしなかった。自分から離れてくれたらもう関係ないとでもいうように。

 


そこに現れたのが、小学生を数人連れたお母さん。
今の経緯を見ていたのかどうかはわからないけど、子供たちと一緒にセミを見下ろして、何か言っている。
お母さんは、セミの上に足をかざしている。えっ! 踏みつぶす気?? と思ったがまさか。
優しく靴の裏をセミの足に触れ、セミを靴にしがみつかせ、そのままそうっと、道のわきの街路樹のところまで運んだ。
優しい。なんて優しいんだ。
踏まれないように、土のところに移動してあげるお母さん。
それを見ていた小学生たちも、優しい気持ちを感じたんだろうな。
更なる放心状態で、私はその場から離れた。

セミにくっつかれるのは本当にもう勘弁してほしいのだけど、今日は優しい人たちに出会えたなあ、私は自分のことで精いっぱいだったのになあ。

 

この間、昆虫の研究をやっているという人が言っていたことを思い出した。
子供のころ、家の中にハエなどの虫が入ってきたら、お母さんが「友だちが来たから、外に逃がしてあげて」と言われて育ったのだとか。害虫と言われる虫でも、叩きつぶしたり、殺虫剤で殺してしまうのではなく、逃がしてあげて、と。
そんな優しいお母さんの言葉で、虫は友だちと思うようになった。
それが原点で、虫を研究するようになったんだ、と。

 

私は虫が苦手だし、これからも好きになるとは思えない。
でも、別に好きじゃなくてもいいけど、安易に殺したりはやっぱり良くないかなあ。
虫というのは、予期できない動きをするから、怖いのだ。
そう、怖いという気持ちから、かえって攻撃的になってしまうのだ。
怖いものは怖い。
でも、攻撃するんじゃなく、そっと別のところに行ってもらって、離れたところで共存の方向を目指す。
そんな風に余裕を持ちたい。
そんなことを考えさせられた出来事だった。